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 「尾張西国三十三観音禮場」


 禮場(れいじょう)の覚え書き

■観音霊場と西国観音霊場

 ■愛知県内に広がる観音霊場

 ●尾張三十三観音【昭和33年(1958)開創( 前)】
 ●三河三十三観音【昭和32年(1957)開創( 前)】
 ●南知多三十三観音【昭和5年(1930)開創( 前)】

 ●尾張西国三十三観音【享保7年(1722)記録( 前)】
 ●三河西国三十三観音【寛文年間(1661)開創( 前)】
 ●知多西国三十三観音【明和7年(1770)開創( 前)】

 県内を3つの地域に分け(尾張・三河・知多)、各地域には霊場がある
 現在、主に巡られている霊場は上記三霊場で、
 「尾張」でも「尾張三十三観音(通称:尾張観音)」と「尾張西国」では
 札番・札所が異なる

 *便宜上、「尾張西国」と表記しているが、当初は「尾張三十三所観音」と
  呼ばれていたらしい、碑には「当國観音霊場」と表記される。
  更に記録としたが開創は室町時代にまでさかのぼる
  本西国が開創千年を超え、尾張は五百年を経過したと伝えられる
  現存する記録では1722年のものがある

 なぜ、こうなったのかと「尾張三十三観音巡礼の始まり」の中に記述がある


 元禄5年(一六九二)名古屋は城下町として繁栄し、人口六万四千人を数え、江戸、大阪、京都につぐ都市となった。このころ観音巡礼が盛んになり、西国霊場の写しが各地に設けられ、尾張にも三十三ヶ所が設けられた。
 江戸中期から末期にかけて観音巡礼は庶民信仰の中心で、寺々は巡礼に震わったが、明治維新による廃仏毀釈の影響で衰退し、太平洋戦争では巡礼の道が断ち切られ、寺々は消失などで戦後は復興しなかった。
 昭和三三年(一九五八)に観音信者のよびかけで、三十三観音霊場結成の気運が高まり、八事山興正寺において、開創大法会がおこなわれ、尾張西国の七ヶ寺をはじめ、大須・宝生院や知多の七ヶ寺ほか尾張各地の有力な寺々が参加した。
 名古屋市大須・宝生院を打ちはじめに、知多半島を一周し、尾西から尾北を経て瀬戸より名古屋市へ戻り、尾張高野で知られる八事・興正寺で打納める、その道程およそ三百三十六キロのコースが設定された。

                       −尾張観音27番慶昌院より


 *尾張西国七ヶ寺とは、
  ●甚目寺【尾張西国1番】  →【尾張観音16番】
  ●間々観音【尾張西国5番】 →【尾張観音24番】
  ●小松寺【尾張西国7番】  →【尾張観音21番】
  ●龍泉寺【尾張西国11番】 →【尾張観音25番】
  ●笠寺観音【尾張西国15番】→【尾張観音3番】
  ●荒子観音【尾張西国17番】→【尾張観音12番】
  ●寂光院【尾張西国33番】 →【尾張観音20番】

■尾張西国の記録

 ■9番圓福寺
  「第九番札所 御詠歌」の石碑が建つ

 ■32番清水寺
  「旧尾張西國霊場」の納経帳が存在する

■納経帳

 昭和初期、戦前には「尾張西国禮場巡拝」と書かれた物が販売されていたが
 巡礼者がなくなり納経帳もなくなった。
 平成になって、講の方が再度納経帳を作成し巡礼をはじめた
 今なら尾張正寿講の方々が管理されている
 残念ながら札所では手に入らないと思われる。



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