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 覚王山八十八ヶ所の歴史


 ■開創

 ■明治42年初夏
  発起人「南鍛冶屋町先達山下圓救師」、世話人「塩町伊藤萬蔵」「南武平町
  花木助次郎」「古渡町奥村新兵衛」らによる勧進帳に始まる。

  その中に曰く「弘法大師八十八ヶ所の霊場を覚王山の境内に模移し、各像を
  も安置し以て廣く世の有信者に参拝せしめ共に二世の大利を得んと欲す。
  …願くは大方の篤信者一紙半銭を論ぜず浄財喜拾あらせ給はん事を」と

  各札所の開所は、明治42年8月から大正の初めにまで及んでいる。
  それ以降の石柱年代は施主の交替による。
  巡礼コースは、もとは札番順に並んでいたが、日泰寺本堂、霊堂、納骨堂など
  の新改築と姫ヶ池から自由ヶ丘を抜ける道の拡幅工事のため
  札所の数の四割もが、小移動或は大移動せざるを得なかった。

               *弘法屋さんで頂いたパンフレットより


 ■地図
 パンフレット裏面には小さく大正10年の案内図と昭和55年のガイドブックが
 掲載されていて、本体の平成9年版の地図が掲載されています。
 今年平成18年実際に歩いて調べると、またまた少し替わっています。
 今度は世代交代とかの入れ替わりもあるんじゃないかと感じます。

 ■100年の歴史

 ■明治42年は、西暦1909年
 100年からの歴史があれば色々な事があったと想像できます。

 本四国への思いから覚王山の山に「写し四国霊場」を造ろうと思い、
 1番から88番まで設定していたのでしょう。
 ページ内での番号は、すべて本四国の寺番号と同じで呼び方も本四国と同じ
 例えば1番は「霊山寺」ですし、88番は「大窪寺」です。

 先達を先頭に回り続け、番外霊場や一本杉、高野山や衛門三郎堂、
 はては納経所まで歴史の中で次々と造り続けてきたのかと思われます。
 思わず本四国にも、こんなお堂あるのかなぁと思えるお堂がありますが
 本四国体験者が覚王山を歩き続けると本四国が頭の中をグルグルまわる
 錯覚に陥るのがわかります。

 すさまじい勢いで土地整備や道路拡張などによって、どんどんと移転し
 エリアこそ変わらないが、札所の順番はバラバラになり、堂の大きさも形も
 てんでバラバラって形になっても続く覚王山八十八ヶ所はすごい場所だと
 思わずにはいられないと思います。

 2009年(平成21年)には盛大な催しがあると想像できます

 ■見て感じたこと

 ■台座
  立派なお堂の中でも屋根のない
  札所でも石像の下に「四国何番」
  と書かれた台座があります。
  このあたりが当初の形だったの
  かと思われます。
  【66番】

 ■移転して簡素になってしまった
 のか、最初からこうなのか
 木材やトタン板で作られるお堂
 更に鉄骨スレートのお堂もあります
 【68番】

 ■霊場きっての珍堂だと思われる
 ロッカーお堂
 【13番】
 
 ■いかにも「お堂」と言う感じです
 【70番】

 ■縁日以外の日は用心のためも
  あり、扉も閉ざされます。
  中にはトタン扉で完全に
  しめられるお堂もあります。
  【41番】

 ■人が数人入れるお堂
  こんな感じか上の人が入れない
  お堂が一番多いタイプ
 

 ■お堂の割りに、みんな立派な
  石碑が建つ
  大きなお寺さんにも引けを
  取りません。
 【5番】

 ■基本形のお堂に増改築を施し
  大きくなった感あり
  【3番】

 ■お堂の横に建てられる納経所。
  小屋か部屋かは微妙な位置
  ですが、しっかりと作られています
  【14〜16番共同納経所】

 ■霊場中最大規模の部類に入ると
  思われる。
  ここはお堂と言うより部屋か
  家と言う感じになっています。
  中だけ見ていればほんどと寺だと
  思ってしまうでょう。
 【6番】

 ■大小バラバラなお堂が軒を
  連ねる
  【27番から37番】

 ■やたらと番外が多く、本四国でも
  ないと思われる札番が並ぶ
 【番外32番】

 ■お堂1つ1つに堂主や参拝者の思いが入っていて、結果としてこんな形に
 なってしまったのかと感じます。
 これが特徴なのか覚王山の八十八ヶ所めぐり


 ■証人

 堂主や参拝者の方々に聞きました。

 ■「〜番さんはお守りが大変だからとお堂を取り壊しちゃいましたが、毎月
   お参りにはみえますよ」

 ■「日泰寺ができる時代だから相当前だけど、参拝者が少ないといけない
   からみんなが協力して八十八ヶ所を作ったの」

 ■「日泰寺を作るとき、参拝者が少ないといけないからと、みんなで協力して
   霊場を作ったの、、詳しくは日泰寺に聞いてごらん」

 ■私「あそこのお堂は何番さんですか?」
  関係者「さぁ、あそこは何番だろうね」
  私「開いてないのですか?」
  関係者「そんなことはないよ、今日は甘酒くばっていたもん」

 ■私「ここは何番さんですか?」
  関係者「私はお菓子配っているだけだから、何番だろうね、、
       たしか○○番だと思う」
  *後で聞いたら番号違っていました。。

 ■「昔は覚王山と言えばお金持ちの家が多く、立派なお堂をたくさん作った
  んだけど、伊勢湾台風で屋根が壊れ、雨漏りがしてダメになった所も多いの」

 □つまり…
  お堂1つ1つで尋ね歩くと、八十八ヶ所全体像をわかっている方は非常に
  少ないと感じます。
  ましてや自分の堂もわからず「お手伝いに来ました」って関係者の方も
  いらっしゃいます。


 

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